THE BLUE BOX

相談所に通い始めた最初の頃、給湯室でぼくが触っていい場所は二つだった。ひとつは冷蔵庫。お茶とか牛乳とか、コンビニ弁当が冷えていることもある。もうひとつはその向かいにある戸棚で、お茶っ葉と湯呑と、時々カップ麺が転がっているかいないかという程度。いずれにしてもさしたるものは入っていないのが常で、だからお茶っ葉の横に小さな青い缶の箱があるのを見つけた時は、とても意外な気持ちだった。
「ああ、あれな。貰い物のクッキーだよ。開けて食っていいぞ」
ソファで新聞を広げていた師匠は顔も上げずに言った。
「師匠も食べますか?」
「俺?俺はいいよ。店で試食し……いや、こう見えて今、各地の霊に向けて気を集中させてるからな」
「集中……すごい」
「食ったら宿題でもしてていいぞ。客が来たら片付けてな」
算数の宿題がわからないでいると、師匠が覗き込んできて一緒に考えてくれた。難しい問題に散々悩んで解けた後はとてもスッキリした顔になって、ぼくが近くに出しておいたクッキーを満足げにポリポリと食べた。
そんな日が何日かあったあと、さほど大きくないクッキー缶の中身はあっという間になくなってしまった。師匠は缶を手に言った。
「この缶いるか?」
一瞬迷った。クッキーの缶なんて何かに使うだろうか。思いつかない。いらねーなら捨てるけど、と師匠が言う。この綺麗な青い缶を捨ててしまうのはもったいない気がした。
「ください」
持ち帰った缶は自分の部屋で見るには目に新しすぎて、どこに置いてもなんだかしっくりこなかった。けれどまあ、そのうち何かに使うかもしれない。何かに……。そう思って本棚に置いたが最後、これといった用途も見つけられないまま同じ場所に十年も置いておくことになるとは、この時はまだ想像もしていなかった。

気がついたのは、引っ越しのために部屋の整理をしている時だった。お気に入りの漫画を持っていくかどうか悩み手に取ったところで、一段上にあった缶がふと目に止まった。
「兄さん、この段ボールまだ入るよ。何か入れる?」
荷造りの手伝いをしてくれている律が、背後で言った。荷造りといっても大した量があるわけではない。手伝いなんていいよ、と一度は断ったけれど、少ない荷物でもきちんと分別し合理的に箱へ詰めてくれるのはぼくにはできないわざであり、さすが律だった。
ぼくは缶を手に取った。
「そういえばそれ、何が入ってるの。昔からずっとそこにあるよね」
「いや、特に何も入ってないよ」
律は怪訝そうな顔をした。
「そうなんだ。ずっとあるから、何か大事なものでも入ってるのかと思ってさ」
大事なもの。その言葉はまるで初めて聞くもののように新鮮に響いた。手の中のそれは確かに、失くしたくない大事なものを選り分けておくにはうってつけのように見えた。
今の今まで、その発想がなかった。というよりもその用途を知ってなお、入れるものが思い浮かばない。大事なもの。なんだっただろう。小学生、中学生、高校生、今のぼくが持っている……
「宝箱みたいなね」
ガムテープを千切りながら律が笑う。思い当たるふしでもあるかのような言い方に、興味を惹かれた。
「律はあるの。宝箱」
律は手を止め、うーんと唸った。
「宝箱ってほどじゃないけど、子どもの頃はね。なんかの記念でもらったやつとか、思い出のものとか、箱に入れてたよ」
「へえ。見たいなあ、それ。まだあるの?」
律は一瞬驚いたような顔になって、それから照れくさそうに笑った。
「大したものじゃないから、がっかりしないでよ」
律の部屋に入るのは何年かぶりだった。自分の家でも、家族の部屋というのはまるで別世界だ。家具の配置から使っているペンの一本まで、律の部屋は律の意思を反映している。いつも使っている黒いリュックだけは見慣れたものだったけれど、それが壁に掛けられていることを初めて知った。
クローゼットをゴソゴソと探していた律が、ふいにあ、と声をあげた。
「あったあった……これだよ」
律が大切に仕舞い込んでいたのは、これまた青く塗装された缶だった。側面には僕の行ったことがない県名が記されている。誰かの旅行土産でもらったのだろう。昔お菓子のおまけでついてきたシールがひとつ貼ってあった。このシール付きお菓子を当時母は買い渋ったが、ぼくは単純にお菓子が美味しくて欲しかったことをいつまでも覚えている。
缶の中にはいくつかのものが入っていた。ホログラムの入った特別なシールや、水族館の記念メダル。シールは兄さんがくれたんだよと律が言った。全然覚えていない。飾りが一部取れてしまったキーホルダーが入っていて、これはぼくが修学旅行のお土産に買ってきたものだと思い出した。
「こんなのまで持っててくれたんだ」
ぼくが言うと律は笑って、
「捨てたくなかったんだ。兄さんが思ってたより、気に入ってたんだよ」
と言った。忘れていた記憶の断片。変容しながら律のそばにずっとあって、それを今こうしてまた一緒に見ることができるのは、とても幸せなことだと思った。
それらとは別に目を引いたのは、ふたつの緑色の石だった。河原の石くらいの大きさで、表面はつるつるしている。宝石のようだといえばそうかもしれないが、よくわからない。これはなに、と指さして訊ねると、律はああ、と懐かしそうに手に取った。
「小学生の時、河原で拾ったんだ。周りでこの石を集めるのが流行っててさ。十個集めると願いが叶う、って」
そんなことがあったのか。ぼくは石をまじまじと見た。陽の光を受けて鈍く光る深緑色の石は、確かに不思議な力でも秘めていそうな感じがした。
「律も集めてたんだ」
意外だった。律にもそういったおまじないめいたことを信じる一面があったのか。
律は笑って、首を横に振った。
「当時、成り行きで一個もらってさ。願いが叶うなんて信じてなかったし、でも、好奇心っていうのかな。ひとつだけ自分でも拾った」
そのふたつってわけ。律は言った。
「じゃあ、十個集めなかったの?」
「集めないよ。無意味だって、最初からわかってた。だからすぐ捨ててもよかったんだけど……」
律は手の中の石を握り、開いた。
「なんでかな。結局持ったままだった」
わかるよ、とは言えなかった。でも、それも含めて律だけの思い出なのかもしれない。時間を超えて凝縮された、自分だけの宇宙。タイムカプセルを作ったことがないけれど、きっと宝箱にも同じ意味があるだろう。
「羨ましいな。ぼくはそういうの、全然大事にしてこなかったんだ」
律が缶の蓋を閉めた。ふたつの石はその中に入らなかった。律の手の中に握られたままだった石は、再び収納された缶とは正反対にる机の上に置かれた。
「案外これからできるかもしれないよ」
律が言った。晴れ晴れとした顔だった。
「これから?」
「生活が変わるわけだしね。そしたらまた兄さんにとっての大事なものとか、そうでないものとか、出てくるんだからさ」
「そうか……そうかなあ」
「そうだよ。さ、荷造りの続き手伝うよ」
律はそう言って、さっさと部屋を出て行ってしまった。

それから、自分なりに今までのことを見つめ直すつもりで部屋の片付けと荷造りを行ったけれど、やっぱり大したものは出てこなかった。引き出しの奥から出てきた応募し忘れていた懸賞ハガキと、棚の裏に落ちていた色褪せた靴紐は捨てた。最後の段ボールを閉める前に、ふと思ってあの青いクッキー缶を一番上に詰め込んだ。住み慣れた家を離れる直前、土曜の夜だった。


「モブ。あれ、なに?」
新居に着いた当日、荷解きは到底終わる気配がなかった。そろそろ夕食でも食べようということになって、買ってきたお弁当をつつき始めた時だった。
師匠が持ってきたカラーボックスの上に、あの青い缶をなんとなく置いた。ほかにはまだなにも入っていない。師匠が箸で指したのはまさにあの缶のことだった。
「昔師匠がくれた缶です。お客さんにもらった、クッキーが入っていたやつ」
「それは知ってる。ていうかあれは俺が買ったやつだし」
師匠はあっけらかんとそう言って、きんぴらごぼうをぱくりと噛んだ。ぼくは食べようとしていた卵焼きを落とした。
「えっ、?」
「そうじゃなくて、なにが入ってんだよ」
「いや、なにも入ってないです」
今度は師匠がきんぴらごぼうを落とした。Tシャツに描かれたくまベアーの眉毛あたりに落ちたので、くまベアーはなんだか困ったような顔になった。
「んじゃなんのために持ってきたんだよ」
「うーん、それを探すためというか……」
「なんだそりゃ」
そう言われると、返す言葉もない。ぼくが黙って卵焼きをつついていると、師匠は自分の分から生姜焼きを一枚分けて、ぼくのごはんに乗せてくれた。
「あれ、師匠が買ってくれたやつだったんですか」
「そうだよ。言わなかったっけ」
「もらい物って聞きましたよ。ぼくは」
師匠はお弁当に視線を落としたまま、黙って笑った。
「相談所の近くにスーパーあるだろ。あん時たまたま特設コーナーができててな。たまにはいいかと思ったんだよ。ま、あれっきりだったけどな」
そうだったのか。それならそうと言えばいいものを、わざわざもらい物だとまで言って。だけどたぶん師匠は師匠なりに、いきなりやってきた子どもとの距離感を測ろうとしていたということなのだろう。あの頃の師匠の年齢に近づいた今ならなんとなくわかる。
「びっくりしました」
「俺もおまえがあんなのまだ持ってたことに驚いてるよ」
師匠はそう言って、また棚の上に目をやった。それから何か考えるようにテーブルに頬杖をつき、やがてふうんと呟いた。
「あれさ。ほんとに使い道ないなら、共同の貯金箱にでもするってのはどうだ?」
「貯金箱?」
師匠は頷いた。
「今は引っ越したばっかでアレだけど、まあ十円でも百円でも入れてさ。一年もすりゃ意外と溜まるもんだよ。そんでその金で旅行でも行こうぜ」
「なるほど……!それ、いいですね」
不思議だった。あんなにも使い道を見出せずにいたのに、ここにきてすんなり決まってしまった。ぼくが想像出来なかったことを師匠はさらりと形にしてのける。けれど確かに、昔からそうだったと思い出した。
「だろ?」
得意げに師匠が笑う。その楽しそうな顔を見ただけで、ぼくはあの缶を持ち続けてきた意味があったと思った。
同時に、こうも思った。ずっと捨てられなかったのは、ただ綺麗だからとか、それだけではない。たぶんそれ以上に、この思い出を忘れずに持っていたかったのだ。

今ならそう思う。

「飯も食ったし、もうちょいやるかあ」
師匠が大きく伸びをして立ち上がった。切り取られる風景の端に、あの缶がある。かつてぼくの部屋の風景にあった同じ缶は、今や見慣れない部屋の中だ。見慣れない壁、散らかった荷物。どこで眠ればいいかすらまだ決まっていない。だけど。
伸びをしたついでみたいに、師匠が缶の蓋をぽん、と叩いた。それだけで見えている風景は、不思議なほど懐かしかった。


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