霊幻新隆と通り過ぎたさみしい話

そいつが誰なのか、俺は少しも思い出せなかった。俺と同じ髪の色をして、同じ眉の形をして、指の長さもよく見れば、自分のそれと似通っている。
おとうと、という名前のついた生き物が俺の人生に現れたのはいつのことだったか。年の差は二つか三つ、子どもの頃はよく一緒に悪さをして、母と姉から叱られた。特に八も歳の離れた姉からの叱責はただ事ではなくて、時には母が姉を諌めることさえあった。俺とおとうとはその場ではしおらしい顔をして、後では二人で姉ちゃん怒るとブスだよなあ、などと言い合って笑い転げたものだった。
「兄さんさあ、ちょっと金貸してよ」
「なんで」
「友達の結婚式に呼ばれてんだよ」
水道の蛇口をキュ、と閉める音がした。おとうとは流しに立ったままコップに汲んだ水を飲み干すと、ゆらりと俺の方を振り向いた。上下スウェットにぽさぽさと潤いのない髪。薄笑いの浮かんだ口元と、ゴムの伸びきって弛んだ首回りが妙に似ていた。
「断る。おまえなあ、先月貸した分もまだ返してくれてないだろ」
「頼むよ。こないだ辞めた会社からの給料、未払いでさ。困ってるんだよ」
「断りゃいいだろ、式なんか。どうせ大したことない知り合いだろ。くだらねーお披露目会の費用回収のために協力してやることなんかねえっての」
おとうとの顔には薄笑いが浮かんだままだった。俺から目を逸らし、壁でも見るように左の耳を掻いた。困った時にはこうするのが、おとうとの癖だった。
「冷てえなあ。兄さんは友達の結婚式なんか、行ったことないんだろ」
俺の背筋はぎくり、と震えた。友達の結婚式など、確かに行ったことはない。誰かに呼ばれたような呼ばれそうだったようなことはなくもないけれど、事実として俺は友達の結婚式に行ったことがなかった。おとうとはわかっていて言うのである。ひどくいやな言い方だった。
「論点のすり替えかよ。みっともない。つうか俺だって結婚式に呼ばれたことくらいあるわ。それを踏まえても言うんだよ。どこぞの二人が法的契約を結んだという事実のために何で他人がご祝儀とかいう金を払わなきゃならない?バカげた慣習に乗っかることに疑問を持てよ」
おとうとは空のコップを手にしたまま、座卓の前までやってきた。ささくれた畳の上へ直に腰を下ろすと、座卓を挟んで向かいに座る俺を見て言った。
「大事なやつの結婚式に呼ばれて行けないなんて言えないもんだよ。あんたってさ、それなりに外面良くするのは得意だけど、所詮外面ってバレバレだからな。心が伴ってねえの。友達なくしていっつも一人になるの、見て来たよ」
なかなかにひどい言い草だった。だがその言い方は責めるでもなく、どちらかといえば大した気持ちもこもっていないような言い方だった。小学生の頃、寝ようとして電気を消してから「今日給食で出たボイルキャベツまずかったよな」などと話をした時のたわいなさに似ていた。
「つうか、そいつに金借りててさ」
「ご祝儀で返す金を俺に借りるのか」
「来週仕事の面接なんだ。友達の友達がやってる会社でさ……とにかく、決まったらすぐに返すから。兄さんにしか頼めないんだよ。頼むよ」
俺はおとうとの言葉というものを何より信用していなかった。俺と言う人間を心得、うまく利用してやろうと言う魂胆を隠すつもりもないのは明白だった。俺たちはたわいもないきょうだいだったはずなのに、いつの間にこんな腐れた利害関係に成り下がったのだろう。最初は違っていたはずだった。俺はおとうとに出会った最初の頃のことを思い出す。こいつはひたすらに小さく、どうしようもなくて、頼られれば何としてでも庇護してやらなければという理由に満ちていた。理由は俺にとって一筋の光明だった。母や姉からの絶え間のない干渉を受け無感動に育った俺でも、誰かの背中になりたいと思っていたのかもしれない。真実でも虚勢でも、俺の中にあるものを目一杯美しく受け止めてくれる誰か。おとうとという家族。分かつことのできない血の関係が、俺に対し救いを求めてくる。
おとうとは正座して両膝に拳を揃え、頭を垂れて黙っていた。「お願いします」という意味なのだろう。多分畳をじっと見ている。しおらしくすればどうにかなると思っているのだ。俺は上着の内ポケットから、いつも持ち歩いている小さなメモ帳を取り出す。おとうとの肩がぴくり、と動いた。
「借用書。作るから名前書け。今度こそ期日通りに返せなかったら……」
おとうとはぱっ、と顔を上げた。占めたと言わんばかりの表情だった。
「助かるよ。ほんとに、ほんとに助かるよ。これで俺の面目も立つ。兄さんが居てくれなかったら、俺はもう死ぬところだ。仕事もなくして借金して、友達もなくすなんてあんまりだ」
目が異様に輝いて見える。だが生気に満ちていると言うよりはむしろ屍のようだった。肉づきの薄い頰にだらしなく緩んだ口元、肌ばかりが若い。何て醜い笑顔だろうと思う。だがそれは子どもの頃からよく見ていた、おとうとの喜んだ顔と何ら変わってはいなかった。
俺は返事をしなかった。黙って貸借の内容と返済期日などごく事務的な事柄を冷静に書き連ねる。おとうとはそれをごく機嫌の良い感じで片肘をついて見ていたが、ふいに思いついたように言った。
「兄さんってさあ」
「うるさい。期限は延びないからな」
「兄さんって、字きったねえなあ」


月日は経ち、季節は夏から秋へと勝手に変わっていた。金を貸した日からも変わらず、俺は時々おとうとの様子を伺うことを忘れなかった。おとうとの住んでいるボロすぎるアパートは俺の部屋からはずいぶん遠かったけれど、目的があれば煩わしさもなかった。除霊依頼をこなすこと、芹沢及びトメちゃんの宿題指導あるいは学校行事にシフトを翻弄されること、中三になり事務所に顔を出す機会もめっきり減ったモブが、たまにくる日にはラーメンに連れて行きたわいもない話をすること。おとうとはそれらとは無関係の用事であり、俺はこのことをまだ誰にも話してはいないのだった。
借用書に記載した期限の日だった。俺はその日もおとうとの住むアパートを訪れていた。前日にも訪れたのだが、おとうとは不在らしく明かりが消えていた。俺はおとうとの携帯番号を知らなかった。今日はまだ明るいから、外からではわからない。俺は部屋のドアをノックした。今時インターホンもない部屋だった。
何の物音もしない。もう一度ドアをノックする。反応は同じだった。不在か、いや寝ているのかもしれない。強めにドンドン、と叩いていると、急にガチャンとドアの開く音がした。
「うるさいな。何してるんだ」
開いたドアはおとうとの部屋ではなかった。一つあけて右隣の、一番南側の部屋だった。四十くらいか。ひょろひょろと痩せて背の高い神経質そうな男が、半開きのドアから顔を出し、不審げにこちらを見ているのだった。
「その部屋になんか用なの」
上から下まで調べるように、男はじろじろと俺を見る。この手の集合住宅は時々プライバシーという観念がない。住人の素性から訪問者まで把握しなければ済まないような、自他の境界が怪しい人間が根を張りがちだ。この男もまた、そういう類の人間なのだろうか。
「ええちょっと。しかし留守みたいだ」
言葉を選びつつ俺はそう返事をした。自分は兄ですが、おとうとには中々連絡がつかなくて。だからこうやってちょいちょい見に来るんですけどね。だが聞かれてもいないことをわざわざ言うのも憚られるような気がした。それになんだか嘘くさいような気さえした。嘘も方便であれば、口から如何様な言葉を吐くのも俺には苦でないはずだった。だが俺はいつからおとうとというものを持つようになったのだろう。おとうと、に対する兄。俺はこれまで、誰かの兄だったことがあったのだろうか。目の前の見も知らぬ他人に兄を自称することは、単なる芝居であり無意味な騙りになりはしないだろうか。なぜならば俺の叩いていたドアはドアではなく、硬く釘の打ち付けられた、古びたトタン板だというのに。
「その部屋の人なら、もうだいぶ前に死んだよ。パチンコ狂いだったっけね。まだ若いのに、借金山ほど抱えて首吊ったってさ。それが『出る』ようになっちまったから、大家も困って部屋ごと封鎖したんだよ。さて、あんた知らないの」
男の目は、次第に生き生きとしてきた。俺のことを不審に見ていたのは遠い過去のように、今ではまるで忘れられた感情を取り戻しているかのようだった。よれた服にぼさぼさの髪。目だけを爛々と輝かせて俺の反応を待っている。俺は何事かまっとうな言い訳をしなければならないと思った。だがそれはあまりに寂しい人生のように思えてならなかった。
その部屋の大家が事務所を訪れたのは一ヶ月ほど前のことだったように思う。自殺者が出た部屋に幽霊が出る。無人なのに勝手に電気がついたり、呻き声や、頻繁にドアを出入りする音が不気味だと噂が広まった。面白半分に侵入を試みる輩まで現れ始めたので、ついに玄関ドアをトタン板で封鎖してしまった。それゆえに調査の際はこのトタン板を外すからと言われていたのが、ほどなくして大家は交通事故に遭い入院してしまったのである。これが命に別状はないものの中々に重傷で、調査は延期になった。
アパートの前を通りががったのはほんの偶然に過ぎなかったと思う。どんなものかと見に行ったのが、すべての始まりだった。


「あれ、師匠」
日はすっかり傾いていた。自分のアパートへ帰る道をひとり歩いていると、前方に見慣れた学生服の姿があった。
「……モブ」
「お疲れさまです。さっき事務所に寄ったんですけど、師匠は今日は先に上がったって言われて。珍しいですね」
モブの背中から夕日が差していた。ただでさえ黒いモブの姿は、逆光で完全に潰れていた。モブの声だけが、いつもと変わらぬ調子で空気に刻まれる。慣れ親しんだ日常。異質な体験をした後に触れるそれは、現実味がありすぎて逆に嘘みたいだった。
「久しぶりだな」
「そうですね。いつ以来だっけ」
歩みを止めた俺に対し、モブはどんどん近寄って来る。髪のかたち、丸みを帯びた頰の輪郭、きちんと留められた学ランの襟。揃った前髪の下で俺を不思議そうに見ている目。右手に下げられた無愛想な通学カバン。真っ黒だった影の塊が次第にその造形を明らかにしていくのを、俺は不思議な気持ちで見ていた。
「どこか行くんですか」
目の前までやってきたものは、もう完全に俺の知っているモブだった。モブは俺を見上げて訊いた。大きな目を興味深げに見開いている。夏の色を残す夕日が、背後からモブを苛烈に焼いていた。モブを飲み込んでなお差し込む光が眩しい。俺もまた、その日射を正面から受け、同じ火に等しく焼かれているのだ。
「それともどこかからの、帰り」
俺はモブに対し「おまえこそこんなところで何やってんだよ」と言いたかった。ここはモブの通学路とは真逆だった。事務所に寄っても同じである。通常なら通る必要のない場所を歩き、その上偶然にも向かいから歩いて来る俺を見つけた。べつに理由は幾らでもあるだろう。事務所を出た後どこかへ寄ったり、友達と会ったり、したのかもしれない。こいつはどこへでも、姿を現わすのに充分な理由を持っている。なんの不思議もない。それでも俺はモブに訊くことができなかった。今ここで、他の誰も通りはしないこの道で、同じ夕日の炎に包まれていることの正しい理由を、モブの口から欲しくなかった。
「?  師匠?」
「……ラーメン」
「はい?」
俺の返事がよほど意外だったのか、モブは少し変な顔をした。前髪に隠れて見えない眉毛が緩く寄ったのを俺は感覚でなんとなく理解する。手を伸ばし、眉間を指で触ってやる。モブは眩しそうに顔を顰めると、空いている方の手で俺の人差し指を掴んだ。振り払うでもない。俺が動かすまで、自分からは離すつもりはないようだった。それが優しさなのか、哀れみなのか、そのいずれでもない、俺の与り知らぬモブの意思なのか。真意さえ取捨選択させるつもりなのだとしたら、俺はおまえの、何を選びたい。
「ん。食って帰ろっかな、って思って」
「この辺あるんでしたっけ」
「駅んとこの商店街にさ。味噌が旨い店見つけたんだよ。おまえも来る?」
モブはふっと表情を緩めた。嫌そうな顔はもうしていなかったが、そうではなくどこか安堵したような、少し力が抜けたような、そんな表情だった。
掴まれている指先を動かす。モブの手がぴく、と動いて力が緩んだ。緩く鍵が外れるように、手と手の間に湿り気をはらんだ空虚ができる。呆気なく解放された指でそのまま、同じモブの手を握った。上から掴むように、一瞬。一瞬だけ握って、離す。離す直前、モブの指先が俺の手を握り返して来たように感じた。けれど思い違いかもしれない。モブはもう向きを変えて、俺の隣に立っている。
「味噌ラーメン」
「そ。バターとコーンつけてもいいよ」
「……はい。師匠」
夕日に包まれて笑うモブの顔は、なんだかひどく懐かしかった。この顔をどれくらいぶりに見たのだろう。一ヶ月、二ヶ月……考えだすとなぜかひどく寂しくなって、泣きたいような気持ちになった。モブのことだけではない。ありもしなかった過去、二度とは返却されない金のこと、美しかったのは常に虚構の中だけで、それすらも簡単に俺の手の中から逃げ出していったこと。俺は何を夢見て、何を手に入れたつもりになって居たのだろう。非現実は非ずのうちは永遠に現実になりはしないことを、俺は誰よりもよく知っているはずだったのに。

「久々ですね。二人でラーメン行くの」

みんななくなってしまった。
もう悲しくはなかった。

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