sabi to saba

ぼくらの春は、ラブソングに見つからないで。

春が遠のいていくなんてぼくはいやだ。電車のドアが開くたびに一回ずつ旅が終わるみたいに、生ぬるい風が吹き込んできてはテレビ画面の広告から「忘れないでね」と言う音声が聞こえてくる。知らない旅行代理店の社名。今でさえどこかから来てどこかへ行こうとしているのに、きれいな桜の花びらが画面の中をひらひら舞って視線の届かない場所へ飛び去っていくのを、ここで繰り返し繰り返し何度も眺めている。
鍵をなくした、というメールを受信したのは会社を出て暫く、定期券の期限がそろそろだったかなあ、とぼんやり考えながら歩いていた時だった。鍵ですか。そう鍵、キーホルダーの金具が壊れてた。文言とともに、留め具が盛大に反り返ったキーホルダーの写真が送られてくる。ひどい。ひどい写真だ。超能力だってこうはいかない。じゃあ迎えに行くから、事務所で待っててもいいですよ。いや事務所は芹沢の鍵でもう閉めたから、駅のあたりで適当に待ってるわ。
ついでになんか食って帰ろうぜ。
ぶわ、と吹き込む風が顔面を直撃して、思わず目を閉じた。閉じた視界はまっくらのはずだったけれど、見上げ続けた画面を埋め尽くす満開の桜が瞼の裏でも色づいた。花びらの形一つ一つとふんわりした甘い香り、ほんの少し霞みがかった青い空と、それを感慨深げに見上げている人。 「おまえほんと、その人の話ばっかりするよなあ」などと会社の人に笑いながら言われたの、いつだったっけ。
「……次は調味、調味です。T線、K線にお乗り換えの方は……」
下りる人の波に乗って押し出されるようにホームへ転がり出た。就職して一年、帰宅ラッシュの混雑にももう慣れたつもりだったけれど、最近は特に人が多い。四月だからだろうか。反対方向の電車を待つ大学生くらいの集団が大きな声で笑っている。だけど彼らが何の話をしているかなんてほんのわずかでも聞き取る暇もないくらい、ぼくはすでに大きな波の一部となっており、その流れのままあっという間に階段を駆け下りた。
定期券の発行を待つ人々が壁沿いをずらりと並ぶ横を通り過ぎて、駅を出る人と入る人が交錯する一瞬の改札を通り抜けて、そこまでしてやっと外に出る。方々に散っていく人々の背中を見回していると、駅前広場にある時計の横に立っている人の姿を見つけた。
「あらたかさん、」
駆け寄りながら名前を呼ぶ。ぼくに気がつくと、その人は笑って軽く片手をあげる仕草をした。
「よ〜、お疲れ」
新隆さんはいつも通りのスーツで、ぼくが冬の賞与(初めてのボーナスというやつだ)でプレゼントしたスプリングコートを着ていた。冬の寒さが和らいだ途端新隆さんはこのコートを着て仕事に行くようになり、今のところ毎日着ている。すぐに上着がいらなくなるくらい暖かくなるのは目に見えていたけど、だからこそそれを惜しむように着てくれているのが嬉しかった。胸元には青いネクタイが見える。今日はこれで仕事に行ってきたらしい。ぼくの方が早く家を出たのだが、その時の新隆さんはまだスウェットを着ていた。一緒に住んでいるのだから部屋着だろうが仕事着だろうが基本的には見慣れたものに違いないのだけれど、未だにこういう細かい意外性に気がつく余地があることが嬉しい。
「悪いな。仕事大丈夫だったか」
「平気です。なに食べたいですか」
「えっ俺? おまえ何か食べたいものないの」
「給料日なんでごちそうします」
「マジで? モブくん超優しい……」
感動したように新隆さんが言う。ぼくが中学生だったらこの場で抱きつかれていたかもしれない。だけどお互い大人だから、路上でそんなことはしない。高校や大学の頃、あれこれとバイトをしているぼくを見ては「働いた金は自分のためにちゃんととっとけよ」が口癖だった新隆さんが、今やぼくのこういう発言をするりと受け入れてくれること。同じラインに立てているのだとも思えば嬉しいし、だけどこれもやっぱり甘やかされているのかもしれない。
「鍵の交換代は新隆さんが払ってくださいよ」
「わかってるってそれは。んじゃどうしよっかな。あっ、餃子定食……」
すぐそばにある中華チェーンの方を見ながら新隆さんは言い掛けた。が、すぐになにか思いついたようで、店の光から目をそらしてぼくを見た。
「いや、でも折角だから行ったことのないとこに行ってみたいよな」
行ったことのないところ。そう言われてもぼくはすぐには思いつかなかった。ぼくらは外食といえば相変わらずラーメンだの蕎麦だのといったところで、それはやっぱりラーメンだの蕎麦だのが好きだからなのだったし、でもそういうところは大体知っている。
「なんか心当たりでもあるんですか」
新隆さんはコートのポケットに手を入れてどこかを見ながら、うんともふうんともつかない声を出した。
「そうだなあ。おまえまだ歩ける?」
「はあ、ぼくは大丈夫ですけど……」
お菓子をもらって夕方に食べたし、正直おなかはそこまで空いていない。新隆さんが食べたいものがあればなんでもつき合うつもりだったけれど、早くも先を歩き始めているこの人がどこへ行こうとしているのかはさっぱりわからなかった。
春のにおいは電車の中で感じていたよりもずっと色濃く溢れていた。昼間の上がった気温に温められて拡散されるのはわかるのだが、太陽が沈んだ夜にぬるく香るのはいっそ酔いでもしそうだった。飲食店の建ち並ぶ通りは眩しい光がきらめいていて、歓迎会らしい集団があちこちで笑い声をあげている。新隆さんと並んでそのあいだをすり抜けていく時、なんとなく触りたくて新隆さんの手を握ってみた。新隆さんは一瞬驚いたような顔をしてぼくを見たけれど、指先はぎゅっと握り返してくれた。ほんの数秒。人波を抜けようとしたところでぼくらは手を離した。
街灯が無くても道が明るかった通りを抜けて、赤提灯がぽつぽつと灯る程度の路地に入って、そこすら抜けて、だんだんと住宅街に入っていく。右に曲がれば家に帰れるT字路を左に曲がって、そのまままっすぐ。
「こっちなんかありましたっけ」
まだ見当がつかないでいるぼくを、新隆さんは面白そうな顔で見た。
「あるある。俺さ、さっき思い出したんだけど……」
新隆さんが言い終わらないうちに、どこからともなく楽しげな声が聞こえてきた。おやと思ったときにはその声はもうざわざわと大きな喧噪となって、体のすぐそばまで迫っていた。
行く手が明るい。向こうには公園があるはずだった。夜空を無数に並んだ明るい提灯、それらが照らしているのは、
「あ……そうか」
見渡す限りの桜だった。
公園の入り口には夜店が立ち並んでいて、それらを買い求める客の姿が見える。大きく張り出された看板には「第○回さくらまつり」の文字。去年はこの催しを知ったのが終わってしまった後だったから、今年は行きたいと話していたのに。そうだ、すっかり忘れていた。
「これ。焼きそばでも買って食いたいなー、って」
新隆さんはそう言うと、どうかというようにぼくを見た。なんだ。この人もやっぱり忘れていたけれど、だけどやっぱり思い出したのだ。
「どう?」
「そりゃもちろん、いいですけど……」
改めて夜店を見回す。一番手前はわたあめを売っていて、それからりんご飴と、じゃがバターにイカ焼き、焼きそばはもちろんあって、その奥のテントには真っ赤なたこのイラストが描かれている。
「あの。ねえ、新隆さん」
「ほいよ」
焼きそばを食べたいと公言したばかりの新隆さんは早くも近くにあったイカ焼きに興味を引かれているようだった。鉄板の上で香ばしく反り返る肉厚のイカを一緒に覗き込む。
「イカだ」
「半分食う?」
「うん。食べたい」
へっへ、と新隆さんはへんな笑い声を出した。楽しそうだ。夜店の明かりに照らされて横顔がきらきらしている。ぼくの知らない、子どもの頃のこの人みたいに。
ひとつ、と言って人差し指を立ててみれば、店のお兄さんは目の前で焼けているものを取って手際よく包んでくれる。新隆さんが財布を出そうとしたけれど、言ったとおり今日はぼくの奢りだ。新隆さんはにこにこしながらお兄さんから包みの入った袋を受け取る。夜を照らし出す人工的なオレンジ色の光が色素の薄い髪を焼いて透かす。夜目遠目は笠のうちなんて言葉があるけれど、願わくば今ここにいる誰にもそんな感覚がなければいいのにと思ってしまうくらい、ぼくは隣にいる人のことばかり考えている。
「……くん、モブく〜ん」
はっと気がつくと、新隆さんが不思議そうにぼくの顔をのぞき込んでいた。あ、と思わず間の抜けた声が出る。向かいからきた女の人がすれ違いざまにくすりと笑った気がした。ああ、とさらに変な声が出る。
「どうしたよ、ぼけっとして」
「ええと……はい。ちょっと」
目をそらす。すると新隆さんは何か思いついたようににやにやし出した。
「はあ〜、さては俺が格好良すぎて見とれてただろ」
胡散臭い笑い方で楽しそうに見下ろしてくる、相変わらずぼくより高い目線。ぼくは結局この人の身長を越せなかった。いや、まだ伸びるという可能性がなきにしもあらずだけれど。小学生の頃から今まで、追いかけても追いかけても逃げて行くみたいに追いつかないから、「新隆さん実はまだ身長伸びてるんでしょ」と言ってみたことがある。我ながら完全に言いがかりとわかっていたけれど、言わずには居られなかったのだ。だけど新隆さんは涼しい顔で「そうかも。だって俺おまえと住み始めてから毎日朝晩牛乳飲んでるし」などと返してきた。
「イケメンがいる生活っていいよなあ。なんで俺モテないんだろ?」
その時ぼくは一生この人には勝てない、と思ったのだ。
勝てない。勝てっこない。だからはっきり言ってやる。
「そうですね」
「そうですって、はっきり言うなこの弟子……フォローのふの字もない……」
「いやそうじゃなくて。確かに今、見とれてました」
「えっ」
「新隆さんのことめちゃくちゃ好きだなって考えてて」
「なっ」
「だから、あんたはぼくにモテてるから。心配しなくていいですよ」
新隆さんは口をぽかんと開けて、二、三秒そうしていたが、突然ぱっと向こうを向いてしまった。顔を見ようとのぞき込もうとしたが、避けるように更に向こうを向く。
「どうしたんですか」
「……あのね、ほんとおまえ、そういうとこ……」
ぱしゃん、と水の跳ねる音がした。すぐそばで金魚すくいをやっていた。ライトに照らされる水槽を赤や黒の金魚が無数に泳いでいる。果敢に挑戦する子どもたち、無数の人だかり。行くも戻るも老若男女でごった返している。新隆さんは向こうを向いたままだ。名を呼ぶ代わりに軽く肩をぶつけてみる。逃げていかない。知っている。怒っているわけじゃないのだ。
間近で見上げた耳が赤い。食べたいなあ、なんて思う。だって無防備だ。赤くてあったかくて、とろけそうに柔らかい。
そう思った時、ぼくは急にさっきまで考えていたことを思い出した。
「あ、そうだ」
新隆さんの腕を取って行く手を指さす。新隆さんは向こうを向いていてぼくの動きが見えなかったので、大げさなくらいよろめいた。
「ちょっ、おまえ危ないから……。こんどはなんだよ」
新隆さんはちょっと顔が赤かったけれど、べつに平気そうだ。ぼくが指している方向を一瞬不思議そうに睨んだが、すぐに「おお」と機嫌の良さそうな声を上げた。
「やっぱ花見はあれがなくちゃ始まんねえよな」
「花見って、いつもでしょ。串に刺してもらいますか?」
「死ぬほど食いづらそう。花より団子も容易でないってか」
「なにそれ深いですね」
「おまえそれ絶対適当に言ってるだろ」
鉄板に開いた無数の窪みにクリーム色の液体が等分に流し込まれるのを見ている。ぱらぱらと降り注ぐ赤や緑の細かな具。底の方から焼ける匂いがしてきて、出来上がったそばから塩をかけられたり、チリソースを塗られたりする。それらがどんどん誰かの手に渡っていったあと、ぼくらは普通のソースたこ焼きを一舟だけ買った。桜の下はどこもすでに満杯で、居所を見つけるのに少し苦労した。宴会騒ぎのあいだをどうにかこうにか踏み越えて、緩やかな斜面を切り開いてできた階段をのぼる。のぼって、のぼって、その途中でとうとうぼくらは腰を下ろした。階段に座り込んで花見なんて到底マナーがいいとは言えなかったけれど、幸い通りかかる人もない。だからどうしても居たたまれなくなるまでは、暫くここに居座ることにした。
眼下には木々につるされた提灯の明かりがぐるりと光っている。ライトアップされた桜のピンク色が夜空に溶けて、とても明るい。桜の鮮やかさに負けず劣らずの歓声がここまで届く。おーいとか、手拍子とか、知っている言葉と言葉ではない音と、ない交ぜになった不思議な響きが耳を揺らす。ぼくだけではない。きっとこの夜を楽しんでいるすべての人がそうなのだ。春の夜のぬるさは何もかもを酩酊させる。ゆっくりじわじわと廻って、だけど夢心地は長続きしない。アルコールが体から抜けて行くみたいに、風が春を少しずつどこかへ連れ去っていく。
「はー、結構いい眺めじゃん」
新隆さんはなかなか腰を下ろさず、ぼくの横で背伸びをしたり上体を突き出して遠くを眺めたりしていた。ぼくは屋台で買い込んだものを袋から取り出す。イカ焼きとたこ焼きと焼きそば。それに焼きとうもろこし。パックを開けると、少し冷めたあとのこもった湯気が冷たく香ばしい匂いを放つ。何しろみんな焦げ目があるのだ。屋台って焼いたものが多いんだな、とどうでもいいことを考える。
「今日、来れてよかったです」
新隆さんは一瞬きょとんとした顔をして、それからすぐに「ん」と笑った。さっき買ったレモンサワーを手渡す。サワーと言ってもアルコール度数0・00パーセントだ。ノンアルと知ってか知らずか、氷水の張られたたらいから新隆さんが選び取ったのがこれだったからなのだけれど、どのみちこのひとを酔わせるのにアルコールの有無は関係ない。
新隆さんはやっと腰を下ろした。ぱき、とプルトップの開く音が響く。レモンの香りが冷気のように漂う。いい匂いだ。ぼくも自分のビール(これはちゃんとアルコール入りだ)を取って乾杯した。
「……は、美味い」
「そうですね」
「茂夫」
「なんですか」
「こっち」
新隆さんはそう言って、自分の右隣をぽんぽん、と叩いた。食べものを間に挟んで花見を始めたばかりだったけれど、もうそんなことを言い出す。ビールだけ持って立ち上がり、新隆さんの向こう隣へ座り直した。新隆さんはべつになにを言うでもするでもなく、ただ唇の端に満足げな笑みを浮かべて遠くを見ていた。
桜が満開を迎えてから散るまでおよそ一週間ほどだという。降雨や強風があったり急激な気温の上昇があったりした場合はそれよりも短い。それは知識だけでなく体感でわかっているはずなのに、咲き誇る桜の木の下がピンク色で埋め尽くされているのを見てさえ、その花が散り終わってしまうイメージは遠い。花が咲いている間だけは「永遠」を取り出して眺めているみたいな。春の夜の夢の如しではなく、春の夜は夢だ。
「おまえさ。中学の卒業式の日のこと、覚えてる」
ふいに新隆さんが言った。中学。遠い記憶に頭を巡らせる。卒業式。父さんに母さん、新隆さんも来てくれた。信じられないことにあの年はもう桜が咲き始めていた。視界にピンクが淡い校門の前で、新隆さんはぼくら家族の写真を撮ってくれたっけ。事務所で使っているデジカメを持ってきてくれたんだった。ホームページの宣材とか、お客さんとの記念写真を撮るのに使っていたカメラ。ある時「依頼解決記念でスタッフ写真も撮ろうぜ」とか言って新隆さんと学ランのぼくのツーショットまで撮ったけれど、あの写真は何といまだに事務所に飾られている。子どもの頃の写真なんて恥ずかしいし下げてもらいたいのだが、新隆さんにその気はないらしい。
話がそれた。
「……師匠が来てくれて、写真撮ってくれたのは覚えてます。それから」
言いながらぼくは無意識に「師匠」と呼んだことに気が付いた。付き合い始めて名前で呼ぶようになってから相当経ったけれど、いまだに時々「師匠」と呼んでしまう。だけどこればかりは体に奥深く染み込んでいるからどうしようもないのだ。特に子どもの頃のことを想い出している時は。新隆さんは今でも師匠だけど、師匠はまだ、新隆さんではなかった。思えば「師弟」というものを先に始めたのはぼくだった。
「夜、一緒にラーメン食べにいった」
新隆さんはそうそう、と笑った。
「よく覚えてるじゃん」
あの日は卒業式の後謝恩会があって、それが終わった後は犬川君やほかの友達と一緒にカラオケに行った。またすぐ集まって遊ぼう、なんて話をして別れた後、一人で家に向かって歩いていると、ちょうど向かいから新隆さんが歩いてきたのだ。師匠、いま帰りですか。新隆さんはぼくに気がつくと驚いたような顔をした。よおモブかよ、おまえこんなとこでなにしてんだよ。友達とカラオケ行ってきた帰りです。あ、式に来てくれてありがとうございました。おー写真あとで送っとくわ。春休み暇なら事務所にも来いよ。高校の課題もうやったのか。まだ終わってなくて、また数学が……そんな話をしていると、ふいにぎゅるる、とお腹が鳴った。うわ。そうだ。謝恩会でもカラオケでも、話をしたりするのに夢中でしっかり食べてこなかったのだ。思わず顔がかあ、と熱くなる。一人焦るぼくを新隆さんは不思議そうに見ていたが、やがてぷ、と吹き出した。
……なあ、俺これから飯なんだけど、おまえも来る。
「あんたといるとお腹がすくんだよなあ」
「なんか言った」
「こっちの話です。イカ焼き食べますか」
新隆さんは口をパカリと開けた。はい、とイカ焼きを差し出すと、端に難なくはむ、と噛みつく。
「でもまたなんで急にそんなこと言い出したんです」
口いっぱいにイカ焼きを頬張った新隆さんは、暫く口をモゴモゴとさせていたが、やがてそれを飲み込むと言った。
「あの日も、桜咲いてたよなーって。確か異常気象だったんだよな。何十年振りとか言ってさ」
ああ、この人も覚えていたんだ。新隆さんは続ける。
「卒業式で桜なんて漫画かよっていうくらい、いい日だった。卒業証書持ったおまえと、おまえの家族と、みんなでニコニコしてさ。俺、写真撮ってた時ちょっと泣きそうだったよ」
「はは……なんで新隆さんが泣くんですか」
「弟子の成長を実感してたんだよ。それに」
新隆さんはたこ焼きに手を伸ばした。串を刺された球体が、重たげにのたりと持ち上がる。
「あー、こうやってどんどん大人になってくんだなーって。そういうのって別にあん時に始まったことじゃねーけど、でもなんかおまえの顔見てたらさ。いずれこいつが俺から離れていくんだとしても、もう悔いはないなって思った」
公園の街灯が、新隆さんの横顔を朧げに照らしていた。

目の上にわずかにかかる髪の毛先が、ゆるく吹いた風に揺れる。
「おまえにとって俺、ずっとこのままでいたいって思ったよ」
新隆さんは口の中のたこ焼きを飲み込んでしまうと、遠くを見たまま、ふうと小さく息を吐いた。体を抱え込むように両腕を組んで、小さく背を丸める。風が緩い。空気がぬるい。華やかな春の匂いがする。他に何と形容してみようもない、春の匂い。
「……新隆さん」
「でも」
開きかけた口を、はっきりとした声に遮られる。新隆さんがこちらを向いた。思わずからだがびく、となる。だけどぼくの予想に反して、新隆さんは笑っていた。面白がっているような困っているような。だけどとろけてしまいそうなくらい優しい、胸のあたりがぎゅっと切なくなるような笑い方だった。
「帰りにまたおまえに会って、一緒にラーメン食いに行ったらさ。やっぱり惜しくなった。おまえが遠いどこかで大人になったって、俺たちはきっとうまいことやっていけたと思う。つかず離れず、細く、長くさ。だけどそれじゃだめなんだよ。おまえのこと、俺が誰よりも一番近くで見てたいんだって思った。おまえの一瞬がもっともっと、一回でも多く俺のものになればいいのにって、あの日、ラーメン食うおまえを見ながらそう考えてた……って」
瞬間、強く風が吹いた。髪がくしゃ、と大きく揺れて、新隆さんは眩しそうに目を細めた。
「思い出した」
この人は時々、驚くほど明け透けなことを口にする。いや、口に出すだけならなんだって、この人は誰より得意だった。嘘でも本当みたいに、本当でも嘘みたいにして、ひとに夢想を与えることも、奪うこともできる。それが大人ってやつなんだと、子どもの頃はなんとなく思っていた。
この人の「心」が欲しいと思ったのは、いつからだったんだろう。
新隆さんの右手に触れた。ん、と新隆さんがぼくを見る。あたたかい。爪が綺麗だ。桜の花びらみたいな色をしている。
「……知らなかった」
「そうか」
「そうだよ。だってあんた今までそんなこと一度も言わなかった」
「恥ずかしくて言えるかっての。ただ今のおまえになら」
新隆さんの指が動いて、触れているぼくの手を握る。
「言ってもいいかなって」
言って笑う。今のぼくは、あの頃のぼくより、あなたはなにを許したのだろう。希望、未来、「まっとうな」人生。新隆さんはそんな言葉を持ち出してはぼくを遠ざけようとした。世界の誰より一番ぼくのことを信じてるくせに、ぼくなら新隆さんがどこにいてもすぐに飛んでいって絶対に見つけだすことができるって、知ってるくせに。与えることは得意でも、与えられることにはつくづく不得手な人だ。ぼくがそばにいることは却ってこの人を不幸せにしてしまうのではないかと思ってしまうほどだったあなたの目に、ぼくは今どんな風に映っているのだろう。
「だって……だってそんなの。ぼくだって、」
ビールの発泡が缶の中で鳴った。暗い夜をしゅわしゅわと冷たくはじけるアルコール。見えなくても、動きはわかる。開いた飲み口からたちのぼる苦い香りが、嗅ぐだけで酔ってしまいそうなのと同じで。
「ぼくだって、あんたのことを一番近くで見ていたいし、見ていて欲しいです。これからもずっと。一緒にいられること、奇跡みたいだって今でも思ってる。だけど奇跡は一人じゃ起こせないから。ぼくたちはきっと、自分たちで思ってる以上に同じ気持ちなんだ」
「……モブ」
眼下に広がる桜の下から、あーあと落胆する声が聞こえた。どうしてなのかなんて知らない。提灯の目映い光の中で、お祭り騒ぎは続いている。
「なあ、桜の木ってさ。すごく傷みやすいんだってな」
新隆さんはふいにそんなことを言った。感極まっていたぼくはよく考えずに「うん」と相づちを打った後、気づいて「うん?」と疑問に変えた。
「えっと……はあ。そうなんですか」
突然話が違いすぎないか。自分から振った話のくせに、もっとこちらの気持ちにも寄り添ってもらいたいのだが。だが新隆さんは構わず続ける。
「写真とか撮ろうとしてべたべた触ったりするのがいるだろ。ああいうことすると結構傷むんだってな。根っこの近くにシート敷くのも同じだとかって聞いたな。桜だけじゃない、ほかの花とかでもさ。触ったところが茶色くなったりすることあるだろ。綺麗だからって近寄りすぎるとだめにしちまうんだよ。遠くから眺めてれば、なにも傷つかない」
新隆さんはそう言いながら、視線は自分の手元を見ていた。ぼくの手を握る指が、なでるように指の腹を動く。指の腹に、手の甲。付け根から指先を確かめるようにゆっくり触られて、背中と鳩尾がそわそわする。
「こうやって桜を見てると、あー綺麗だなって思うけど。それだってなんで綺麗だなって思うのかとか、どう綺麗なのかって、知ってても自覚したくないのかもしれない。あの綺麗さに名前を与えたら、その瞬間から傷が付いちまうような気がして……」
握られた人差し指が持ち上げられる。新隆さんはおもむろに口を開けて、その中にゆっくりとぼくの指先を含んだ。あたたかくて柔らかい粘膜。濡れて吸いつき、舌先でゆっくりなぶられる。驚いて手を引っ込めようとしたけれど叶わなかった。ん、と思わず声が出る。伏せられていた瞳が上目遣いにぼくを見た。恥ずかしい。
「あっ、やめ……ちょ、あらたかさん、」
「なんで。気持ちいいって顔してる」
新隆さんが小さく笑う。ずる、と指が粘膜に滑る。新隆さんの口から時折ん、と息が漏れるのが、さらに心を波立たせた。
「人が来るかも、しれないから……っ」
「誰かに見られてたら、気持ちいいことはしてちゃだめ?」
声に、視線に、体中の毛穴が開く。外でこんなことをするのは初めてだった。夜風が、聞こえて来る喧騒が、体から熱を奪うよりも、より一層熱くさせる。恥ずかしくて、だけどやめて欲しくなくて、本当はそれ以上のことすら、今ここでしてしまいたい。新隆さんの濡れた唇のかたちを見ていたら、喉の奥がひりひりと熱く乾いていることに気が付く。
「えろいなあ。可愛い」
「ち……が、」
違う。違わない。どっちだかぼくにはもうわからない。だってあなたは、アルコールよりもずっと早く体に廻って、ぼくの意識から思考を奪う。
「あらたかさん……その」
「ん」
「口にキスして、ほしいです」
指の股に吸い着いていた唇が離れた。そのまま手を引っ張られる。鼻の先同士がほんの少しだけ掠れた。口を開けて、舌の奥まで。いつ誰が通りかかるかもわからないのに、ぼくらは夢中でキスをしている。
「ふ……ねえ、師匠」
ああ、まただ。また、師匠と呼んでしまった。だけど格別で特別なぼくだけの師匠は、あの頃からずっとずっと、これから先も。
「あんたが体に残る傷になるなら、ぼくはいくらでも欲しいです」
うん、という声が近くで響く。笑っているみたいだった。耳よりも早く心臓へ届く、深くて熱い新隆さんの声。
「名前を付けて欲しがっていいんだ。恐れる必要なんかない。もっとたくさん欲しがって、触って。知ってるでしょ」
ぼくを。
くちゅ、という音を立てて唇が離れる。あ、いやだ。離れたくない。そう思った次の瞬間、ぼくの体はぎゅっと抱きすくめられていた。
「好きだ。モブ」
その背中に腕を回す。黙って、でも新隆さんには通じたはずだ。喉のあたりでスプリングコートの襟が潰れている。細身のきっちりと固い感触は、だけど随分この人に馴染んだ。
「もう一回、言ってください」
「好き。大好き。誰にも、どこにもやらない。俺とずっと一緒にいて」
「もう一回、」
「……あのなあ、おまえこれ以上は」
家に帰ってから。そう言った新隆さんのポケットが小さくちゃり、と鳴った。電子レンジのオレンジの光が、ブーンと小さく唸るのを聞いていた。ピーという終了音が鳴り終わるのを待たずして、がちゃんと扉が開かれる。油の浮いたソースのいい匂いが、ベッドに倒れているぼくのところまで届いた。
「ホレ、出来た」
湯気の立つ皿を持った新隆さんがひょいと顔を覗かせた。ぼくが起きているのを確認すると、ベッド脇に腰を下ろす。屋台で買って持ち帰ってきた焼きそば。新隆さんはいてて、と呻いて顔をしかめた。
「あー、腰が……」
ぼくが焼きそばを受け取ると、新隆さんは穿いているパンツのゴムあたりをさすった。
「やっぱり、ぼくが動けば良かったですね」
「いやいや、ほら、今日仕事で結構体動かしたから、そういうアレだよ」
な、と謎の同意を求めてくる。そもそもなにが「いやいや」なのかよくわからなかったが、あまり深く掘り下げない方がいい気がした。焼きそばをベッドの上に置いて、寝そべったまま新隆さんへ手を伸ばす。髪をなでると、新隆さんは小さく笑った。
「……でも、次はおまえが上になって」
顔が近づいてきて、唇が触れる。残る余韻に今し方の記憶が蘇ってきて、体の奥が小さく疼く。だけど今日はもう無理だった。新隆さんだけじゃなくて、ぼく自身もくたくたに疲れていた。体の中が空っぽになった後の強烈なだるさ。眠くて仕方ないけど、頭の端っこがまだ冴えている。
二人で焼きそばをつつく。一度冷めてまた温めたそれは、水分が抜けて少し固くなっていた。それはそれで美味しい。だけどぼくたちは何かというと麺ばかり食べているな、と思った。ラーメンに蕎麦。久々の外食(しかも給料日だ)はちょっといいものを食べてもいいかなと思ったりもしたけれど、結局深夜零時を回ってから、ソース焼きそばに添えられた紅ショウガなんかで知覚を刺激されている。

急に思い出した。

「新隆さん。玄関と、事務所の鍵の話ですけど」
新隆さんは焼きそばの麺を避けてもやしだのキャベツだのをもそもそとつまんでいたが、こちらもすっかり忘れていたような顔でぼくを見た。
「あー鍵な。そうだ、俺思ったんだけど、実は事務所の中とかあんまりよく探せてなくてな。もしかしたらどっかに落ちてるかもしんねーから、明日もっかい見てみようかなと……」
もやしをより分けながら言う新隆さんの後ろには、スラックスが脱ぎ捨てたままになっていた。腕を伸ばして手をかざす。右のポケットがふわ、と膨らんで、チャリチャリと小さな金属音を立てる。
新隆さんが肩をぴく、と震わせた。──こっちへ。ポケットの中のものにいま一度念を送る。布のあいだからするりと姿を現したそれば、夜の部屋をふよふよと浮いて、ぼくと新隆さんの目の前までやってきた。

「これ」

手のひらにぽとんと落ちてきた小さな銀色のもの。それは紛うことなき、ぼくらの部屋の鍵だった。持ったまま新隆さんを見る。新隆さんは鍵をじっと見つめ、それからぼくの視線に気が付くとはっとしたように顔を上げた。
「ん? あー、おお! そんなところに」
「違うだろ。なんで『なくした』なんて言ったんですか」
「いや、キーホルダーが壊れたのは本当なんだよ。事務所の階段んとこでこけそうになってぶつけたら壊れてさ。事務所の鍵はマジでだめになったし」
新隆さんはそう言って一人でうんうんと頷く。
「それはわかりましたけど、べつに嘘つかなくたっていいじゃないですか。しかもくだらないし」
ぼくが言うと、新隆さんはむうと黙り込んだ。ベッドの端っこまで行って、下から顔を覗き込む。「ねえ」
「……メールした時は、マジでなくしたと思ってた」
「それで」
「事務所閉めて下に降りて行ったら、階段降りたとこの溝に挟まってたんだよ。まあ芹沢が見つけてくれたんだけど──こけた時にふっとんでったんだな。あ〜やべーなモブにもう迎えに来てくれって言っちゃったし、でも鍵あったからいいわっつうのも恥ずかしいというか、折角久々に平日おまえと帰れるしなっていう……俺何言ってんの?」
下を向いて喋っていた新隆さんはそこで初めて上目遣いにぼくを見て、自嘲気味にはは、と乾いた笑い声をあげた。
かたかた、と小さく窓が揺れた。外ではまだ、春の風が吹いているようだった。ぬるくて強い、あの感触はこの部屋の中にはない。だけどそれよりももっとずっと愛おしい、あたたかくて確かな体温が目の前にある。
「ねえ。明日も一緒に帰りませんか」
「明日?」
新隆さんが不思議そうな顔をする。ぼくは頷いた。
「キーホルダー、壊れたでしょ。新しいの買いに行こう」
「……あ、」
「折角だし、二人で同じやつにしてもいいなあ」
新隆さんの唇が何か言いたげに開かれる。体を起こして、その唇にキスをした。舌先が口内に入り込んでくる。押し付けて、舐めとって、齧るみたいに。触れあっている隙間から、ふ、と吐息に似た笑いが漏れてくる。
「……ほんとおまえ、そういうとこ……」
新隆さんの手が、ぼくの頬に触れた。指先が髪の毛先を梳く。その手に自分の手を重ねた。指先が絡む。触れたい。触れられていたい。ずっとずっと死ぬまで、死んでも。きっとどこまでも続いていく。そうやって、ぼくらの春は。