sabi to saba

俺かおまえがいない季節

「合宿に行くんですよ」

じわ、と一声だけ鳴いて、それから蝉は黙り込んだ。エクセルを閉じてインターネットを開くと、原色けばけばしい画面があらわれる。週刊誌のサイト。グラビアモデルの特集をしている。閲覧した覚えがない。芹沢か、それともエクボが見てたんだろうか。いやそれにしてもこんなもの。あいつら見るだろうか。ずらりと並ぶ水着写真を横目に「閉じる」ボタンにカーソルを滑らす。すると黙っていた蝉が突然ジワジワジワとけたたましく騒ぎ出した。なんだよ。エロじじいかよ。クソが。
「……師匠、聞いてますか」
「合宿だろ。ていうか授業どうすんだ」
「だから明日から夏休みですって」
白襟半袖のモブは顔色一つ変えずにそう言った。
「それで、明日から三泊四日で合宿なんで。暫くバイト来られないって話を」
モブは麦茶をとって一口飲んだ。からからん、と音を立てて氷が揺れる。
「してたんですけど」
涼しげなその音色に惹かれて自分のグラスに手を伸ばすと、氷は既に溶け消えていて、代わりにびっしょりと冷たい汗をかいたグラスの肌が、掌に触れた。
夏休み。もうそんな季節。
「三泊もするのかよ。すげえな」
「はい。あと、合宿が終わったらそのままおばあちゃんの家に行くことになってるので。次に来られるとしたら、お盆明けくらいになりますかね」
麦茶は口をつけた瞬間から悲しいほどぬるかった。持ってきた時は氷を入れてキンキンに冷たくしていたのに、効きの悪いクーラーにやられて一気に威勢を失ってしまった感がある。
モブはソファから立ち上がると、俺の後ろを通り、壁に掛けてあるカレンダーをぺろりとめくった。今日は七月の二十三日で、盆明けならば来月も半ばを過ぎる頃だ。大体二十日。数字で言えば大した期間でもないが、紙一枚の重量があると何だか重たく感じる。モブはカレンダーをめくりあげたまま、八月の数字をぼうっと見ている。半袖からのびる肘下はまだ生白い。俺は「ほーん」と返事をして、麦茶の二口目を含んだ。
「まあ盆あたりは霊も里帰りしてたりして仕事もないだろ。気にすんなよ」
「でも里帰りって、霊が現世に来てるってことなんで、むしろ色々と増えるような……。大丈夫ですか、芹沢さんもかなりお休みを取るって聞きましたけど」
めくりあげていたカレンダーを戻してモブは振り返った。俺は椅子のストレッチごと大きく反り返り、ブラインドの外を見るふりをした。
「いいって。この時期くる客は大抵お祓いグラフィック案件だし……それに、せっかく企画した心霊スポット巡りツアーだって申し込みゼロだしな」
窓の下では芹沢がチラシを通行人に受け取ってもらおうと奮闘していた。昼から一時間、一体何枚減ったのだろうか。そろそろあいつも呼び戻さないと、何しろこの暑さだ。
「まあ、そもそもパクリですし」
モブは机の上にあった、大手交通会社の名が書かれたおどろおどろしい雰囲気のチラシを手に取り言った。ちょうど去年の今頃、街中で貰ったものだった。
「んん〜パクリではなく新規参入と言うのだよモブ君」
「アイス食べていいですか」
「いいけど、芹沢も呼んできてやれ」
「師匠は?」
「俺はやめとく」
答えてまた麦茶を飲んだ。ぬるい。いやこれはもはやぬるいとかではなく、まずい。氷が溶け込んだ飲み物はなぜこんなにまずいのだろう。夏はこれからが本番なのに、既に中だるみみたいな、そんな腑抜けた味わいがする。アイス、アイスか。アイスはいいよな。頭が割れるほど冷たくて、意味不明なくらい甘ったるくて。俺は、何でこんなものを。
モブは給湯室の方へと行きかけたが、何を思ったか踵を返して再びソファに腰を下ろした。それから氷の残っている麦茶を両手で包み、しかし口を付けようとはしなかった。
「師匠」
「おー?」
「師匠は夏休みあるんですか」
「いや別に。ここは通常営業予定」
「どっか行ったりしないんですか」
「どっか行っても混んでるだけだろ。ガキの頃はいいかもしれんが、社会人になると休日の人混みやら行列やらに参加するだけで体力消耗するんだよ」
休んだところで特にすることもないしとは言えなかった。遊びに行くような友人もないし、同窓会の知らせが届いたとも聞かない。実家に帰ったところで親からの小言がやかましいばかりだし、ならばここで普段通り過ごすのが最適解だ。
「そういうものですか」
「そういうもんだ」
「大変ですね」
何が大変なのかわからないが、モブは至って真面目そうな顔でそう言った。しかし若さ真っ盛りの中学生に言われると悲しいほど他人事のように響く。ごくんと麦茶を飲む淀みのない所作がまた、蒸し暑い事務所の中で異質に見えた。
会社で働いていた時も、盆正月に何をしていたのか覚えていない。夏休みが楽しかったのはいつまでだったのだろう。大学、高校、いや中学?
「ま、とにかくだ。バイトは気にしなくていいから、色々遊んだりして来い」
陽光に浸ったブラインドが、じんわりと熱を放っていた。クーラーの効きがずっと悪く、この部屋のものは何もかもが熱を帯びがちだ。ふと触れる棚や壁が生温いとギョッとする。いよいよどうにかしないと、今年の暑さはやばい気がする。修理代、仕事、俺の夏。
「あーーくっっっそ暑い」
「師匠」
大欠伸をして目を開けると、行儀よく座っている弟子と目が合った。
「どうしたよ今日は師匠師匠って」
「いえ、何というか……」
はっきりと呼びかけてきた癖に、モブは今更言い淀んだ。しかし何かを躊躇うからではなさそうだった。表情筋の動きは乏しいまま、適切な言葉を探し求めるかのように視線が宙を向いた。
「なんか、夏休みって、今まで何していいかよくわからなかったんですよね。だから、去年も家でだらだらするか、バイトに来るだけだったんですけど。今年は部活もあるし、脳電部の人たちとかとも遊びに行くことになってて」
モブの表情は変わらない。
「夏休み明けって結構、雰囲気変わる人っているじゃないですか」
「あ〜、主に女子な。日焼けしたり髪型変わってたりするのはいるよな。夏休み何があったんだよみたいな」
「去年の始業式で、ツボミちゃんを見かけたんです。家が近所なのに全然会うことがなくて、ホント終業式以来だったんですけど。ツボミちゃん、ちょっと日焼けしたみたいな感じだったんですよね。海とか行ったのかなって思って……」
「さらに可愛くなって見えたわけだ」
人間同士、久しぶりというだけでも新鮮さは生じるものだ。今まで特段意識しなかった相手でも、時間の空白が新たな切り口を見せて来ることがある。モブもそんな感覚を覚えるようになったとは。
ははーんいいねえ、青春は。からかい交じりに言ってやれば、モブは顔を真っ赤にしていえそれはその、などと慌てた。

「いやまあ、そう……ちょっと違いますけど。とにかく今日そのことを考えていてたんです。もしかしたら僕もこの夏は頑張ったら、し……誰かをちょっと驚かせることができるんじゃないかって」
そう言ってモブは膝の上で拳をぎゅっと握りしめた。いや、何だその意欲は。俺は図らずもたじろぐ。驚かせるってなんだ。寧ろどうした。モテ男になるための意識改革でも始めたということなのか。俺から見れば帰宅部のアルバイターという価値観を脱却したというだけでも、おまえは随分変わったけれど。
しかしたぶん、モブが言いたいのはそういうことではなくて。
「つまりこの夏で一皮向けて」
「はい」
「好きな子をハッとさせたい」
「それです」
モブは身を乗り出し、大きく頷いた。
「なのでまずは合宿を頑張って、男らしく筋肉を……って、なに笑ってるんですかあんた」
モブは勢い付いたかのようにいつになく熱く語り出したところだったが、俺が黙りこくって肩を震わせているのに気づくと急に真顔になった。俺は慌てて、緩んだ口元を引き締めようとする。
「すまん……いやこれは別に笑ってるわけじゃなくてだな」
「笑ってるじゃないか」
「だから違うって」
「なにが」
夏への期待は実体がないまま、暑さに任せて過剰に膨らむ。膨らんで膨らんで、だがそのあとは?何かが残るかもしれないし、何も残らないのかもしれない。残るかもしれないと思うのは若さで、残らないと思うのは老いだ。老い、諦観。或いはそれ自体が、何も残らなかったものの振るう暴力なのかもしれない。
今、目の前のモブを見て思う。こいつにはまだ、有り余る未知の可能性があり、そもそもこの十四歳自体が可能性の塊なのだ。その可能性の塊が、まだ見えぬ何かを現実にするために模索し、一つ一つを自らの手で掴んで行こうとしている。
それが夏か?夏なんだろうか。いやそれよりももっと、おまえは眩しい。こんな思いを聞かされて、誰よりも近くで見てきた俺が寂しくなるほど。

いつのまにか。
おまえは光にも似て。

「俺も」
「え、……」
「俺も楽しみにしてるよ」
言えたのはそれだけだった。
「……師匠」
モブは大きく目を見開いた。訝しげな視線とは打って変わって、瞳は途端にきらきらと煌き出す。それから何か言いたげに口を開きかけたが、結局言葉が発せられることはなかった。その代わりに再び結んだ唇に笑みをたたえ、モブはソファから立ち上がった。すたすたと給湯室へ向かう。姿が見えなくなると、バタッと冷蔵庫の開く音がした。
「モブ?」
モブはすぐに戻ってきた。両手には一本ずつ、ソーダバーが握られている。俺はすぐにそれが何かわかった。棒が二本ついたアイス。真ん中で割って二人、もしくは二回に分けて食べるアレだ。モブは右手のそれを齧りながら、左手を俺の方へと差し出した。
「アイス。食べましょうよ」
めっちゃ暑いねー、と外から聞こえた。
蝉が鳴いている。ジワジワジワジワ鳴いている。苛烈な日差し、深く濃い影。夏は日毎に勢いを増して、学生を夏服にし、部屋の温度を上げ、手の中の麦茶をあっという間にぬるくする。いくら背を向けようとしたところで、それは知らぬ間にやってきて、否応無しに俺を巻き込んでいくのだ。
受け取ったソーダバーの棒はとても冷たかった。一口齧ってみる。途端に響き渡る、唇が痺れるような冷気。歯にしみる甘さ、爽快感。ああそうだ。やっぱこれだよ。
「あ、そういや芹沢は」
「芹沢さんならどこか行ったみたいですよ。チラシの束は、居たところに積んであるみたいですけど」
アイスを詰め込んだ口をもごもごと動かし、モブが言った。
「マジで?勤務中だぞおい」
ブラインドの隙間に目を凝らす。居ない。どこにも見当たらない。モブの言う通り、チラシが路上の端に寄せて積んであるばかりだ。いや何でだよ。いつの間に居なくなってんだよあいつ。
「暑すぎてコンビニでも行ったんじゃないですか。ここじゃ外と大差ないし」
「呑気だなおまえは。何かトラブルがあったらまずいぞ」
「いやコンビニに入って行きましたよ」
「マジでか」
「そっちの窓から見えました」
「見えましたっておまえ……」
「暫く師匠と僕だけですね」
「いやあと十五分で予約の客来るぞ」
「うわっ、そうだった」
そのために呼んだのだというのに、モブは何故だか少し嫌そうな顔をした。俺は芹澤に電話してみようかと思い携帯を開いたが、数秒画面を睨んでやめた。
モブはシャクシャクと満足げに青色の氷菓を頬張っている。その姿が何だか羨ましくなって、俺も大口を開けてがぶりと齧った。冷たい。甘い。これでいい。ソーダバーは冷たいうちに、夏は暑いうちに。おまえはおまえに、俺は俺に出来ることをする。