sabi to saba

しんでもいえない

壁を睨んでいる。ベッドの上に胡座をかき、壁にかけた二通りのコーディネートを交互に睨みつけている。わかっている。わかっているのだ。服飾に関するレパートリーに乏しい人間が侘しい引き出しをかき回したところで、出てきたものにさしたる違いなんかないことは、わかっている。それでもいっとうましな格好をしていかねばならぬという意地が俺にはあった。

おまpえが「大学に合格しました」と伝えにきた日のことを覚えている。桜もまだ咲かない二月の終わり。雪さえちらつく午前、底冷えの滲む事務所で芹沢の淹れた熱い茶の湯気を啜るおまえの嬉しそうな顔。それからふた月と経たないうちにおまえは調味市を出て、離れた街で一人暮らしを始めた。出立の朝、駅のホームで「落ち着いたら手紙出しますね」なんてしんみりしたことを言ってくれたはいいものの、待てど暮らせどそんなものは届かなくて、それが一年以上経った夏の日に突然「ゼミでチベットに行ってきたのでお土産です」とかいう文言とともに塩が送られてきた時の俺の衝撃がおまえにわかるかよ。思わず「おめーは上杉謙信か」とか言ってしまったし、エクボは「塩!」とだけ叫んであとは爆笑していた。しかしおまえの力なのか、悪霊に対して少量でも効くのは助かっている。あとゆで卵につけてもまろやかで美味い。って、話はしたんだっけ。

おまえに会うまでの期間が長く開くようになって、いったい何を話したのか、話していないのか、わからなくなることが多い。おまえに話したいことが毎日たくさん降り積もるのに、日常の慌ただしさに端からこぼれ落ちていく。きっと話したいのはこんなことじゃないのに、と思うことしか覚えていられない。おまえも会えば色んな話をしてくれる。友達のこと、大学のこと、新しく始めたアルバイトのこと。けれどそれはおまえに起きた数限りない出来事のほんのわずかなことで、俺はそれをたまに聞き伝うことでしか想像できない。電話すれば数十分で落ち合える場所に暮らし、週に三日も四日も事務所の受付に座っていた日々があったというのに。いつのまにかおまえはあの日々を遠ざかり、俺というポイントをやすやすと飛び越え、今では俺の遥か前を歩いているような気がする。昔からそうだったのに、物理的な距離が開けば開くほど、俺とおまえの生活は遠ざかっていることを、おまえはどれほど知っているんだろう。「電話しますよ」なんておまえは気軽に言うけれど、電波を通じて聞こえてくるおまえの時間など、かするほどの僅かな手触りでしかない。それでもおまえが「今電話してもいいですか」なんて律儀にメールを寄越してくる時を、俺はどうしようもなく楽しみにしている。「一々確認とかしなくていいから」と言えば、今度は「突然かけてすいません」なんて深夜に謝り出すおまえの、見えない唇から漏れ聞こえる安堵のような笑い声を楽しみにしてるなんて、まあ恥ずかしくて言えねえよな。

おまえの帰ってくる日は忘年会の日だと思い込んでいたから、明日だと聞いた時は驚いた。「いやそう言ったでしょ。朝イチの試験が終わったらその足で帰りますから」なんて、俺はどうしてそうじゃないと思っていたんだろうな。

おまえは今頃、まとめた荷物を背に最後のレポートでも書いているのだろう。かたや俺はこの通り、服なんか出して散らかしている。普段ならスーツで構わないところなのに、明日は生憎定休日(去年から木曜は定休日にすることになった、何しろ従業員が多いと色々煩いからな)だし、そもそも昨日着たやつ以外クリーニングに出してしまった。思えば、スーツ以外でおまえに会うことはこれまであまりなかったように思う。ジャージくらいはあったかもしれないけれど、ともかく俺がろくな服を持っていないことは多分おまえにバレていないと信じているし、だからこそ、明日おまえを迎えに行く服がないなんて嘘みたいな状況に困り果てている。

こんなことで、今夜は眠れる気がしないなんて死んでも言えない。そうだとも。モブよ、おまえのために眠れない夜なんてあってたまるか。往生際の悪い、愚かな男だと笑ってもいい。だから、どうか今はまだ、そういうことにしといてくれ。