Gravity

背の高いトウモロコシ畑の青い匂いを、沈みかけている夏の太陽がオレンジに染める。燃えてるみたいに苛烈な空気を肺まで吸い込んで、息を吐いた。空と大地が永遠に続いているみたいな田園風景の中に立っていると、この景色に不安を感じていた七歳の頃のことを思い出す。世界から取り残されてたった一人でここにいるような、不安と焦燥の入り混じったあの気持ちを。
実際のところ、ぼくは七歳だった。夏のあいだは学校に行かないから、このところはずっと朝から晩まで専ら家業の農作業を手伝っている。今も、母に言われて知り合いの家まで届け物をしにいくところだったのを不意に思い出した。
この畑を抜ければ目的地までは数マイルほどのはずだ。垂れ下がる葉としなやかな茎を掻き分けながら目的地の方向へ歩き続ける。が、いつまで経ってもその終わりが見えてこなかった。
迷ったのだろうか。でも、こんなことはこれまで一度もなかった。空を見上げて、太陽の位置を確認する。現在の時間は、と無意識に左手首を持ち上げたところで、自分が見覚えのない腕時計をはめていることに気がついた。
いや、正確には見覚えがないのではない。特徴のあるスクエアにデジタルの文字盤、オールブラックのカラーリング。PROTECTION。2010年製のG-SHOCK。これが自分の持ち物ではないことを、ぼくははっきりとわかっていた。
「……ベンジー」
名前が口をついて出る。するとそれに呼応するかのように、ポケットの中が振動し始めた。上着に手を突っ込んでiPhoneを取り出すと、画面はまさにその名前からの着信を知らせていた。
「……ベンジー?」
「よう、イーサン。困ってるか?」
電話の向こうから聞こえてくるベンジーの声は、穏やかで、少し冗談めかしていて、つまるところ驚くほどいつも通りだった。困ってるか、とはどういうことだ。ベンジーはぼくがここにいることを知っているのだろうか。もしかすると、ぼくはこの場所に来ることを彼に伝えてあったのだろうか。こんなセンチメンタルじみた行いを?
「ベンジー、ぼくは」
「その声は困ってるな? ハッキングか? それとも追跡? まあなんでも任せてくれよな」
「違うんだベンジー、そうじゃなくて……」
快活な声に若干圧倒されつつ、改めて自分の左腕を見た。
「ぼくは今どういうわけだか、きみの時計を持ってる」
「ああ。G-SHOCKだろ。それで?」
「『それで?』?」
「それがおまえの困ってることなのか?」
ベンジーは驚くでもなくそう言った。口ぶりからすると、ぼくが彼の時計をはめていることについては既知の事柄みたいだった。かたや、ぼくの方では借りた覚えは全然ない。
けれど、問題はそこではないのだった。
「困る。きみのこの時計はデジタル表示だから、南に行きたいのに方角がわからない」
方角がわからなくなったら太陽と時計を見て見当をつけるというのは、もっとずっと幼いころに父から教わったやり方だった。興味津々で覗き込んだ、父の腕の手巻き時計。あの時計がここにないとしても、問題の解決は容易な気がしてならないのに、今のぼくはその方法を思い出すことが全然できない。
ぼくは一体なにをやってきたのか? あれから気が遠くなるくらいの年月が経って、どんな困難も自分のやり方で切り抜けるすべを身につけたと思っていたのに、突然それらの全部が体から抜け落ちたみたいに、今のぼくは無力そのものだった。
「この畑を抜けて南に行かなきゃならないんだ。届け物を────」
届け物をしなければならないと言おうとして、突然そのことが遠い過去の記憶だったことを思い出す。母の使いで遠くまで走った夏。そうだ。あれはもう何十年も前の話で、今のぼくは……
何かが焦げる匂いがした。背後から吹き付ける風に逆らって振り向くと、トウモロコシの茎の間から立ち上る黒い煙が見えた。燃えている。煙の様子からして、火の手はかなり強そうだ。夏場の自然発火はよくあることだけれど、あるいはそうでないのかはわからない。ここからはまだ距離があるだろうが、のんびり迷っていられるほどの時間もないことは明らかだった。
ぼくの心配をよそに、ベンジーはデジタルのなんたるかについて朗々と語っているところだった。
「あのなあ、デジタルってのは0か1の世界のことであってそれ自体が用途なわけよ。方位が知りたきゃそういう機能を作らなきゃ。テーブルナイフで土も掘れなくないっていうのとは違うの。待てよ。この例えって合ってるかな?」
煙たさが強くなっている。今から火元へ駆けつけたところで、たぶん、人間が身一つで対処できるレベルではなくなっている。
「ベンジー」
「ていうかもしかしてそんなの全然関係なくて単におれの時計に対する悪口?」
「ベンジー!」
「なに?」
「ベンジー、頼む。ぼくを見つけて、ここから出してくれ」
やっとそれだけ言えた。
「上海の時みたいに?」
少しの沈黙のあと、ベンジーが言った。どことなく楽しんでいるような言い方だった。
「上海だけじゃない。パリでもね」
「なるほど、そうだ」
「でも今日は窓からの飛び降りは無しで頼むよ」
「間違いなく最短ルートなら?」
「まさか。でも、きみがそうだというなら」
信じて走る。それだけだ。
電話の向こうのベンジーは、俄にやる気になったかのように「オーケー」と真剣な声音で言った。
「心配すんな。おまえのことはちゃんと見えてるし、おまえの行くべき場所もわかってる。二分でその草むらから出してやるよ」
二分。左腕を見る。
刻一刻と、時を刻んでいるG-SHOCK。
「だからイーサン、おれのこと信じて走れ」
その言葉を聞いた瞬間、得体の知れない高揚がぞわぞわと背筋を駆け上るのを感じた。
ベンジーを信頼している。ベンジーの示す道筋をいつだって信頼している。そうやってぼくは、火のついた導火線上を走り続けてきたのだから。
言われるまでもない。
いつでも走り出す準備はできている。


「……サン、イーサン」
意識の遥か彼方から、誰かの声が聞こえる。
ぼんやりする頭で、ゆっくりと目を開けた。崩れた天井。剥き出しの配線。空気がうすら白く濁って見えるのは、かつて壁だった瓦礫から立ち上る粉塵だと気がついた。
「イーサン! 聞こえるか!?」
はっきりと聞こえた声の主をそれと理解するまで、しばしの時間が必要だった。
「……ブラント」
ぼくが応答すると、インカムから安堵のようなため息が聞こえてきた。
「生きてたな! すごい爆発音だったぞ。平気か?」
爆発音。そうだ。ぼくは対象者を追ってこの廃工場にやってきたのだ。最上階まで追い詰めあと少しで確保というところで、向こうがなにかを投げて寄越した。フラグと気付いた時にはもう遅かった。凄まじい破裂音とともに、足元が崩れ落ちるのがわかった。三階で起きた爆発はすぐに二階から一階へと雪崩のように全体を巻き込んでいく。ぼくは空虚へと放り出されはしたものの、それでもなんとか梁を掴んだ。二度目の爆発音が聞こえたのは、それからすぐのことだったと思う。
ゆっくりと体を起こす。いくらか外傷はあるが、動けないほどではない。一度に下まで落下しなかったのが良かったのかもしれない。
「ぼくは平気だ。それよりも対象を逃した」
「追跡は継続中だ。奴はまっすぐ西に向かっている。どうやら空港に行く気だ。なんとか奴を押さえないと。ここで出国されたらまずい」
段々と頭がはっきりしてくる。瓦礫に手をついて立ち上がると、さすがに少しふらついた。
「ぼくが追う。例のファイルは?」
「奴が売りに出した。かなりの高額でな。某国のスパイを引き受けてはいたが、なにしろアメリカの安全保障に関するデータだ。最初から一番高値で買う相手と取引するつもりだったんだろう」
ブラントの言葉と、足元で瓦礫の踏み壊れる音が重なる。かつて出入り口だった場所は完全に塞がれてしまっていたが、反対側のわずかな隙間から脱出することに成功した。
外にはかなりの人が集まっていて、彼らの驚いたような視線の中を無心で走り抜けなければならなかった。緊急車両と思しきサイレンが遠くから響いてくる。爆発でどれほど気を失っていたのかと思ったが、ほんの一瞬だったようだ。
────西だ。空港に向かわなければ。
カトマンズ。建物がひしめき合う細い路地をひたすら走る。路地を曲がってまた路地へ、西へ。山岳地帯特有の砂っぽさと、風にはためく織物の赤い色が、乾いた目に染みる。こんな状況でなければゆっくり観光でもしたいところだが。
「地点Bでベンジーと合流しろ。イーサン」
ブラントの声がノイズ混じりになる。行く手が開けているのが見えた。大通りに出られる。
「奴を絶対に出国させるな」
転がるように通りに走り出ると、一台のBMWが滑り込んで来て目の前で急停車した。
「イーサン! 運転変わってくれ!」
ベンジーはドアを開け放して叫ぶと、いそいそと助手席に移動し始めた。ベンジーを押しやるようにして運転席に潜り込む。フロントガラス越しの道路を見るよりも前に、足がアクセルを踏み込んでいた。
「はやいはやいはやいはやい」
ベンジーがうわずった声をあげる。
「速く走れるように作られてるからね」
「それを実践するかどうかは別の話って聞いたことない? っていうかイーサン、爆発に巻き込まれたんだろ! 平気なのか?」
そんな人間に運転させる方もどうなのかと思うが、そこは前科もあることなので飲み込んだ。
「大したことない。それとも危ないから、やっぱりきみが運転する?」
するとベンジーは急に真顔になって、
「いや、俺はやんなきゃいけないことがある」
シートに預けた背の後ろからタブレットを取り出した。
「こいつでデータ売買の妨害工作をしなきゃならないんでね。持ち出された他のデータも偽情報にすり替えないとなんだが、思ったより時間がかかってる。加えて土地勘のない国を急いで運転とはね! 我ながらよくここまで事故らないで来れたと思うよ」
あれこれと喋りながらタブレットを操作する。忙しないその様子を横目に見ていると、ふとベンジーの左手首に巻かれた時計に注意を引かれた。
「ベンジー」
「なんだ!? イーサンそこ左!」
アクセルベタ踏みのまま交差点を曲がる。先の方で事故があったらしく迂回指示が出されているのが目に入った。さらに横道に入る。ここにはありがたいことに通行人はいなかった。傍に積んであった資材を後輪で薙ぎ倒したような衝撃があったが、戻って確認している暇はない。
「ああああああああ揺れる」
道の凸凹に合わせてベンジーの声が揺れる。その膝の上でタブレットも跳ねる。
「来てくれてありがとう」
「どういたしまして! 俺は吐きそう」
ベンジーはそう言いながら、手を伸ばして傾いたルームミラーを直した。
「あー、この先もいくつか通行止めになってる箇所がある。お望みなら強行突破してくれてもいいが、最近大規模な陥没があったせいだから下手すると地中深くに落ちる。なるべく避けてくれ」
「善処する」
「善処か。いい言葉だな。あの世か病院か刑務所のどこがいいか、希望を聞いとこうか? 俺の行き先で申告しといてやる」
「飯が美味いところでお願いするよ」
ぼくが言うと、ベンジーはぷっと吹き出した。
「いや、なんかさっきまで色々うまくいかなくて焦ってたけど、おまえと話してたら作業が捗ってきたよ。あれこれ悩んでたのが嘘みたいにさ。普通はこんなことってないんだ。静かな場所で集中したい気持ちになるもんなんだけど」
ベンジーはそう言いながら、軽快な手つきで画面を叩く。作業中のその画面の隅に、追跡図がホシを赤く点滅させているのが見えた。
「ぼくじゃない。それだけきみが、現場に適応してきたってことさ」
ホシは止まることなく西の方へと向けて移動を続けている。距離は思ったほど縮まってはいない。あちらも迂回を続けているようだが、追いつくまではまだいくらか時間が必要だ。あれこれ考えている暇はない。考えるより先に手が自然とハンドルを切る。
ベンジーの作業は順調に進んでいる様子だった。しかしやはり全てがスムーズにとはいかないらしい。ベンジーは時折独り言のような呻き声のようなものをあげ、その度に頬を指で掻いた。
「最近G-SHOCKをつけてないね」
頬を掻くベンジーの手が止まる。おもむろに自分がはめているT-Touchを見、それから奇妙なものにでも出会ったみたいな目でぼくを見た。
「誰が?」
「きみだよ」
「俺? ああ、俺ね。そうか」
ベンジーは急に我に返ったような声を出すと、少し悲しげな表情になった。
「GXWの方だろ。スクエアの……。あれ、ベルトがダメになってさ。酷使し過ぎたせいだよ。新しいやつに付け替えたいんだけど、忙しくていいのを探せてないんだ」
「そうか」
「っていうかなんで今その話?」
ぼくは素直に、さっき気絶中に見た夢の話をした。ベンジーは相変わらず画面を叩きながらふんふんと聞いていたが、G-SHOCKが出てきたあたりから姿勢がだんだん前のめりになり、話し終える頃にはなぜか、タブレットに額をぴったりと押し当てるほどになっていた。
「そういうわけで、そういえば最近きみがG-SHOCKをしてるところを見ないなと思ったんだ」
「いや、そういうわけって……。とりあえずおまえが俺の時計してるってどんな夢だよ。あの時計そんなに気に入ってた?」
「気に入ってたというか、いい時計だとは思うよ。G-SHOCKはぼくも何本か持ってるし。でもなんと言うか、あれがぼくの中で一番きみのイメージに紐づいていたんだと思う」
ベンジーはタブレットに突っ伏したまま呻いた。
「それで……あれじゃ方角がわからないってキレたって?」
「笑えるだろ?」
「いやいやいやいや」
ベンジーはそう言うと、勢いよく顔を上げた。
「笑うっていうか……それはいいよ。夢の中なんて支離滅裂なんだから。それよりなんか、おまえの夢の中で俺かっこよ過ぎない? 大丈夫?」
「? 大丈夫じゃないかな。その通りだし」
なにが大丈夫なのかはよくわからなかったが、思った通りに伝える。
ベンジーの反応はといえば、あげた顔を再び画面に押しつけることだった。
「ベンジー?」
返事がない。
「ぼくがあの畑で迷ったことは実際にあった。七歳よりうんと前だけどね」
ベンジーが黙ってしまったので、ぼくは勝手に続きを話し出す。景色があっという間に後ろに流れていく今なら、なにを言ってもいい気がした。
「自分の背より高いトウモロコシに囲まれて、ここから出られないかもと思ったよ。現実の畑だから端まで行けば抜けることはできたけどね。あの時感じた恐れを夢の中で思い出した。でもぼくはきみのG-SHOCKをつけていて、きみの存在を思い出した。きみに頼ることを思い出した。デジタルじゃ方角がわからないなんて思ったのも多分、ものじゃなくてきみの力を借りたかったんだ。ぼくは自分で思っている以上に、きみがいてくれることを心強く思ってるんだって、だから」
ありがとう、と夢の中では言えなかったことを思い出した。
「ベンジー、きみに感謝してる。って話」
ベンジーは返事をしない。なにか気に触ることを言っただろうか。それとも本当に具合が悪くなったのか。
ベンジー、ともう一度呼びかけようとした時、インカムからブラントの声が飛んで来た。
「こちら本部だ。我々以外に対象に接触を試みている人物を今し方検知した。彼らは西ではなく南に向かっている。デクラン、追跡できるか?」
了解。ぼくらとは離れて行動しているデクランが応答する。
「彼らは売買に関するなんらかの手はずを整えているはずだ。ベンジー、きみの担当の進捗は?」
タブレットを掴んでいるベンジーの指が、ぴくりと震えた。
「時間がない。ベンジー」
「聞こえてる。今最後のデータを更新中だ」
ベンジーはそう言いながら、のろのろとタブレットから顔を上げた。押し付けられていた額が赤くなっている。フロントガラスの向こうをぼんやり見つめている目は、疲れたような夢でも見ているような、ともかくそんな感じだった。
「ベンジー、平気か? ぼくが変な話をしたからだね?」
心配になって訊ねると、ベンジーはああ、と掠れたような声を出した。
「変な話? ああ、そうかもな。うん。でも全然大丈夫。俺は平気だよ。そう平気。いや平気っていうのかなこれ?」
「本当に平気か?」
「うん。大丈夫。あーなんか、すごいやる気出てきた……」
最後は独り言のようにそう呟くと、ベンジーは俄に目が覚めたみたいにタブレットをしっかりと持ち直した。画面を開いて内容を確認している様子は、もうちゃんといつものベンジーだ。
「ブラント、データのプロテクトは完了した。改変も済んでる。あちらさんのお仲間が取引に使ったとしても、すぐにはバレないはずだ」
「了解した。きみたちはそのまま対象を追ってくれ」
ブラントがそう言った瞬間、タブレットが表示している赤い点滅が急に進行方向を変えた。西へ向かっていたはずが、急に南下し始めている。ブラントの指摘する相手と落ち合うのか。
「イーサン、対象が行き先を変えたぞ」
ベンジーが慌てたように、追跡図を画面上に拡大する。
「おい、これまさかインドとの国境まで行くんじゃないだろうな?」
「そこで待っててくれればありがたいけどね」
ハンドルを右に切る。そのまま道路を突っ切るとまた別の道に出た。縦横無尽に広がる路地。車一台通るのもどうかというところだ。
「ベンジー、ナビを頼む」
言い終えた瞬間、視界が開けて前方に大きな黒い塊があらわれた。
「あーっとイーサン! 牛! 牛が!」
ベンジーが叫ぶ。道路の真ん中で大きな牛がゆったりとくつろいでいるのだった。反対車線に飛び出して回避する。対向車の驚いたようなクラクションが後ろから聞こえてくるが、すでに遠い。
「2ブロック先を右折だ」
ベンジーに従ってハンドルを切る。曲がり際にちらと目に入ったベンジーは、どことなく楽しそうな表情に見えた。こんな状況でも? けれどその気持ちはわかる。だからぼくらはここにいる。
「ベンジー」
「なんだよ」
「きみがいてくれてよかった」
ベンジーはそれを聞くや否や笑い出した。大笑いだった。こんなに爆笑するベンジーを見たのは初めてだった。ベンジーは笑い、一人で暫く笑い、画面に目を落としたまま一頻り肩を震わせると、大きなため息をついて、ついに両手で顔を覆った。
「はあ、おまえって本当……」
方やぼくは、進行方向の選択に迫られていた。行手の路地が三方に分かれている。先が曲がりくねっていて、どこに通じているのか見えない。三路とも同じ道に出れればなんの問題もないが、そうであってはくれなさそうだった。
「ベンジー、道が三叉に分かれてる!」
「左だよ」
覆った手の下からベンジーが言う。
「道幅が狭くなってる。袋小路じゃないか!?」
「左だ。もうすぐ追いつく! イーサン」
ベンジーはもう一度大きくため息をつくと、顔を覆っていた手を離した。笑い過ぎたからなのか押さえていたからなのか、顔が真っ赤だ。
眉を下げ、困ったように笑う目と目が合う。
「俺のこと信じて走る?」
その言葉で、ハンドルを左に勢いよく切った。アクセルを踏むが、道幅はやはり狭くなっていく。それでも踏める。まだ踏んでいられる。加速に体が乗るのがわかる。アドレナリンのせいかもしれない。それでも本当のところがどうかなんて、今この瞬間にはどうでもいいことだ。
「もちろん」
ぼくはベンジーの問いに答える。
今までも、今も、これからも。
「きみを信じるさ。ぼくは」
それは、言われるまでもない。
「だからきみとここにいるんだ」

視界の遥か先で、シルバーのAudiが右折するのが目に入った。情報にはないが間違いない。あの車だ。
あの車を抑えてすべてを片付ける。
ベンジーはもう笑い出したりはしなかった。ただ「やれやれ」とでも言うみたいに小さく息を吐き、それから急に気がついたみたいに、真面目な顔でアシストグリップを握った。
ぼくはインカムに向けて、次に発するべき言葉を探す。



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